2026年3月
退職制度を取り巻くグローバル環境の変化
過去100年にわたり、退職後の経済的な安心を幅広く提供してきたことは、金融分野における最大級のイノベーションの一つです。
退職に向けた貯蓄や投資は現在、世界中の数十億人の長期的利益と整合し、グローバルな金融システムの中核を成しています。一方で、地域ごとに見れば、退職制度を取り巻く環境は再定義されつつあります。構造的要因と行動面の変化により、個人がどのように退職を計画するか、制度がどのように運営されるか、そして最終的にどのような成果が生まれるかは、大きく変わりつつあります。
この潮流を、すべてのお客様と市場に影響を及ぼす戦略的かつ実行可能な転換点として捉えているステート・ストリートは、資産管理と資産運用の両事業を通じて、政府・公的機関・年金スポンサー・雇用主・アセットオーナーに加え、世界中で数百万人の退職貯蓄者を支える金融の専門家やプラットフォームと連携しています。当社の役割は、次に来る姿をお客様とともに描き、お客様が自ら行動に移せるよう後押しすることです。
本書は、ステート・ストリート・インベストメント・サービス(資産管理部門)とステート・ストリート・インベストメント・マネジメント(資産運用部門)が共同で進める調査シリーズの第1作です。本シリーズでは、退職制度の進化と、それが実務に持つ意味を明らかにするために、補完的な視点を統合しています。マクロ分析に、制度全体における退職行動や信頼感に関する洞察を組み合わせ、変化の理解を深めるとともに、意義ある行動の余地を見極めるための前向きなフレームワークを提示することを目的としています。
本書は、人口動態・労働市場・公共政策・財政制約・期待の変化といったマクロ要因が、世界の退職制度をどのように再形成しているかに焦点を当てています。続く第2作では、制度設計・投資戦略・所得ソリューションに加え、イノベーション、テクノロジー、そしてパートナーシップが果たす役割を掘り下げていく予定です。
退職はもはや、キャリアの終点で完結する静的な出来事ではありません。いまや数十億人に影響し、グローバル資本市場の中核を成す、システムレベルの課題となっています。各国の退職制度は転換点にあります。退職者の増加と長寿化が進む一方で、実質金利や株式評価は高水準にあり、政府財源にも制約があります。こうした構造要因は制度にとどまらず、個人の退職成果、さらには金融サービスを取り巻く商業環境まで再構築しています。
本研究は、これらの構造変化によって退職関連の金融サービス需要がどのように変容しているかを捉えるため、マクロからミクロへと視点を接続し、金融サービスが新たな需要に応え得る領域とその具体的なアプローチを明らかにします。
退職は「貯蓄」から「成果」へと再定義されている
長寿化は退職期間を長引かせるだけでなく、就労と退職の境界そのものを変えつつあります。キャリアが非線形化するなかで制度に求められるのは、柔軟に移行できる仕組み、長期にわたるリスク管理、そして資産を積み上げること以上に、安定した所得を生み出すことです。
退職の「成功」は、退職時点の資産残高ではなく、必要な水準の所得を安定的に、そして継続して確保できるかで測られるようになっています。
制度の形は違っても、直面する課題は共通している
回復力を左右するのは「商品」ではなく「仕組み(アーキテクチャ)」
成果を上げている制度に共通するのは、ピラー間の連携に加え、リスク分担の明確化、早期からのデキュムレーション(資産の取り崩し)設計、そしてガバナンスと実行力です。
金融サービスにとっての新たな成長機会
グローバル退職アーキテクチャ:分析の枠組み
本研究は、世界銀行のマルチ・ピラー・フレームワークに基づき、退職制度を複数の機能(ピラー)に分けて分析しています。
同一のマクロ要因であっても、制度の中核を担うピラーがどれかによって、影響の現れ方は大きく異なります。
次世代の退職制度に向けた設計上のポイント
「英米型」代表例
米国
米国の退職制度は、約50兆米ドルの資産規模を抱える世界最大級の制度です。公的社会保障と、任意の職域年金や個人貯蓄を組み合わせた多層構造で、ガバナンスも統一設計というより、歴史的経緯の積み重ねによって形成されてきました。
社会保障(ピラー1:公的年金)は、賦課方式の確定給付(DB)として運営され、主な財源は給与税です。ほぼすべてのフォーマルセクター労働者をカバーし、とりわけ低・中所得層に対して、インフレ調整後の基礎的な所得保障を提供する中核的制度となっています。OECDによれば、純代替率は低所得者で62.5%、高所得者で40%程度とされています。
補足的な保障として、低所得高齢者向けの補足保障所得(ピラー0:SSI)が一般財源で提供されており、2024年時点で約700万人が受給しています。制度全体に占める財政規模は大きくないものの、高齢期の貧困防止に不可欠な役割を担っています。
一方、職域年金401(k)や個人年金(IRA)に代表される雇用主型・個人型の任意貯蓄(ピラー3)は、中・高所得層の退職所得の十分性を左右する重要な要素です。ただし任意制度のため、民間部門労働者の参加は約半数にとどまり、加入率・給付水準ともにばらつきが大きい点が課題です。
住宅資産や個人貯蓄、さらには高齢期の就労(ピラー4)も、一部の退職者にとっては重要な補完要素です。しかし資産格差が大きく、制度全体として十分性を押し上げる効果には限界があります。総じて米国では、社会保障が制度の基盤を成す一方、十分性の確保は私的貯蓄に大きく依存しています。義務的な積立型職域年金(ピラー2)が存在しないため、今後の退職成果は準義務的な貯蓄制度がどこまで成熟し、非正規・ギグワーク労働者を取り込めるかに大きく左右されます。
英国
英国の退職制度は、基礎的な公的年金に、職域年金と個人貯蓄を組み合わせた多層構造です。中心に位置付けられる新国家年金(ピラー1)は、一定の保険料納付期間を満たす加入者に対し、定額(フラット)の給付を行います。
2025~2026年度の給付額は週約230.25ポンドで、「トリプルロック」により、インフレ率・賃金上昇率・2.5%のうち最も高い伸び率に連動して毎年引き上げられます。国家年金は最低限の生活基盤を支えることを目的としており、現役時代の所得を全面的に代替する設計ではありません。政府支出はGDP比で約5%に達しています。
低所得の高齢者向けには、追加支援として年金クレジット(ピラー0)が用意されていますが、申請率は依然として十分とは言えません。
2012年に導入された自動加入制度により、職域年金(ピラー2:主に確定拠出型、DC)への参加率は大幅に向上し、2023~2024年度には約88~89%に達しました。一方で自営業者や低所得者、若年層には参加の遅れや制度未加入が残り、依然としてカバレッジの隙間があります。
柔軟に引き出せるDC制度の普及により、退職後の市場リスクと長寿リスクを個人が負う構造が一般化しました。その結果、デキュムレーションの設計や適切なガイダンスの提供が、制度全体の重要課題となっています。
「ビスマルク型」代表例 (※日本の制度に該当)
ドイツ
ドイツの退職制度は、強力な公的年金を中核とする包括的な制度である一方、人口高齢化に伴う財政圧力が顕在化しています。
制度の中心となる法定年金保険(ピラー1)は賦課方式で運営され、賃金に連動した給付を提供しています。近年の立法により2040年まで最低代替率48%が保証されている一方で、その財政コストは大きく、年金支出はすでにGDPの10%を超えています。
職域年金(ピラー2)と私的年金(ピラー3)は補完的な位置付けにとどまっており、参加は大企業や公的部門に偏っています。中小企業や非正規就労者では加入率が低く、制度の分断が課題となっています。人口高齢化が進むなかで賦課方式への依存が続けば、次世代の負担増と世代間不公平が拡大するリスクがあります。今後の焦点は、十分性を維持しながら、財政の持続可能性とカバレッジをどのように再設計するかにあります。
「高度多層型」代表例
オランダ
オランダは、世界でも屈指の包括性と回復力を備えた退職制度を有しています。
制度の土台となる基礎年金(ピラー1:AOW)は、居住要件に基づく普遍的な制度で、貧困防止の基盤を担っています。これに準義務的な職域年金(ピラー2)が重なり、極めて高いカバレッジと約1.8兆ユーロに上る資産規模を実現しています。
2023年に成立した年金改革法(WTP)により、従来のDB型から個人口座ベースのDC型へと、制度全体の移行が進められています。移行は2028年までに完了する見込みで、透明性、世代間公平性、ポータビリティの向上が主な目的です。
高いガバナンス能力と制度間の連携により、オランダは高齢化や市場変動の影響を相対的に吸収してきました。一方で今後は、自営業者のカバレッジ拡大に加え、デキュムレーション設計の高度化が重要な課題となります。
オーストラリア
オーストラリアの退職制度は、公的年金と強制積立型のDC制度を組み合わせた多層構造を採用しており、国際的にも高く評価されています。
制度の土台となるのは、一般財源で賄われる所得・資産テスト付きの老齢年金(ピラー1)です。高齢者の約65%がこれを主な所得源としており、最低限の生活基盤を支えるセーフティネットとして機能しています。
制度の中核を成すのは、雇用主に12%の拠出を義務付けるスーパーアニュエーション(ピラー2)で、その資産規模は4兆豪ドルを超えています。原則として60歳まで引き出しが制限されているため、長期の資産形成と資金漏出の抑制が制度的に担保されている点が特徴です。
一方で、非正規就労やギグワーク(フリーランス等)の拡大により、拠出が断続的になりやすく、退職所得の十分性にはばらつきが生じています。また、退職後の所得設計においては、長寿リスクと市場リスクにどう備えるかが重要な政策課題となっています。